シェイクスピアの『マクベス』を読んでの感想、というか思ったことを少し。
有名な作品ではあるが恥ずかしながら初読。シェイクスピアの作品ということでも『ハムレット』を昔読んだきりなので2作品目ということになる。何故これまで読もうとしなかったのだろうかと不思議に思いつつ読んだわけだが、昔『ハムレット』を読んだ時の感覚を思い出して納得した。要するに面白くないのである。
『ハムレット』『オセロー』『マクベス』『リア王』の4作品はシェイクスピアの中でも四大悲劇と呼ばれ内容まで含めて有名だ。当然私も大体のあらすじは知っている。あらすじを知っていたからといって全く面白くなくなってしまうかというとそうとも限らないのだが、ここで外国文学つまり翻訳文学であるということが問題となってくる。
シェイクスピアの面白さの多くはその言葉遊びにある。これは本文に付された訳注を見れば明らかである。しかし翻訳によってそれらは失われてしまう。これは訳の問題ではなく翻訳という行為そのものが抱える宿命だ。そしてシェイクスピア作品の場合はその影響が大きい。それは戯曲という形式からくる描写や構成の簡潔さ、そして内容も含めて有名すぎるということに拠るのだろうと思う。とにかくそうした事情から翻訳されたシェイクスピアを読むと、まるであらすじをなぞっているだけのような感覚に陥るのである。
そんな文句を言うのであれば英語で読めばいいじゃないかという声も聞こえてきそうだが、それもどこか的外れな意見のように感じる。確かに私たちは英語教育を受けてきている。辞書を片手に原文を読むことも出来るかもしれない。しかしそれはイギリス人が英語を読むのとは圧倒的に違うのである。言語感覚であったり文化的背景の理解だったりという点で私たちはイギリス人に敵わない。もっと言えば現代のイギリス人にとってのシェイクスピアと、シェイクスピアが生きた当時のイギリス人にとってのそれとの間にも天と地ほどの差がある。それは日本人にとっての源氏物語などを考えれば明白なことだ。
ではこのように文化の違いなどによって本来の面白さが失われてしまった文学作品に価値はないのだろうか。私はそんなことはないと考える。古い作品や文化の理解が失われた作品たちはそこに現代的、同文化的解釈を挟むことで時と文化を超え、再び僕たちのもとで復活を果たす。それは作品そのものであったり翻案小説という形をとったり様々だが、そのように時や文化の壁を超えられる作品というのが本当に力のある作品であり、過去から未来へと読み継がれていく作品なのだろうと思う。
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