2013年5月29日水曜日

Opera Next 15

当方、数年前からパソコンのブラウザではOperaを愛用しています。

Opera最強伝説(笑)とかネタにされることも多いこのブラウザですが、「実際使ってみてから言えっ!!」と。某狐さんやG○○leでできることがOperaではできないなんて話も聞きますが、opera:configと.iniファイル弄れks、内部アクションでggrksとかとか。いろいろ弄れるようになるとこれほど素晴らしいブラウザは他にないと思うわけです。スキンも設定ファイルいじると幅とか変えれて自分好みのものが作れますし、ブラウザの速度比較とかありますけど、描画スピードは最近のブラウザはどれも速くてあまり気になりません。それよりもマウスジェスチャやキーボードショートカット、コンテキストメニューなどを自在に弄って操作性を上げたほうがストレスの低減になる気がする。

そんなOperaですが時代の流れなのか、これまで採用していた独自レンダリングエンジンPrestoを見限り、Googleが開発しているBlink(Webkitからの派生?)に変更することになったらしい。そして遂に開発評価版Opera Next 15が公開された。レンダリングエンジンというブラウザの根幹部分の変更なだけに従来のOperaから様々な変更があるだろうことは明白です。ではいざインストールしてみます(ドキドキ)

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……………orz.

目を疑いました。もはや絶句です(爆) Operaから良いところを根こそぎ無くしてChromeに限りなく近づけた感じとでもいうのでしょうか。良く言えばシンプル(笑)
もちろんChromeをバカにしているわけではありません。Chromeはシンプルさと高速性が売りの素晴らしいブラウザです。それはそれで良い。だがしかーし、それはOperaがこれまで求めてきたものではないだろうと。Operaの良さはそのカスタマイズ性の高さにあったわけです。GUIの整った設定に加えて裏設定扱いのopera:config、さらに.iniファイルの編集によって隅から隅まで手を加えることができるのがOperaの売りだったのではないのか?

と全体的にかなりの衝撃を受けたのですが、その中でも特に気になったのをいくつか紹介してみたいと思います。(黒ボッチが問題点、矢印が軽い感想になりますね)

・サイドバー(ブックマーク含む)が無い
  →Operaのサイドバーにはメモ機能とかもあって便利だったのに…
・ブラウザとメール機能が分離
  →一体化してることに意味があったと思うのは自分だけ?
・設定項目の少なさ
  →ついでにopera:configも無い。
・タブの縦置きができない
  →これは困る。タブ30個くらい開く身としてこれは困る。
・MDIじゃなくなった
  →タスクマネージャー見るとopera.exeがいっぱい。気持ち悪い。
・urlfilter.iniが無い
  →根本から広告ブロックできる優れものだったのに...
・OperaDragonflyが無い
  →urlfilterで消しきれない広告をusercssで隠すのに使ってたorz

結構いっぱいあった(笑) まあ、こんな感じです。もちろん今回のOpera Next 15は開発・評価版ということでこれから機能の追加もあるだろうし修正もされていくんだと思います、というかそうだと信じてます(震) 少なくとも設定項目は今後充実していくはず…。
でもでも開発版にせよ公開したってことは開発スタッフ的にはある程度目処が立ったと判断したってことですかね?だとしたら正式版も悲しいことになる予感…。

とりあえず今後は12.15を使いながら様子見、並行して乗り換え先ブラウザを探すという方針でいこうと考えています。Opera最強伝説の終焉も近いかもしれない。
細かく弄れないOperaならOperaである必要はないのだよ。

2013年5月4日土曜日

嶽本野ばら『祝福されない王国』(新潮文庫)

昔、世界の端に海に囲まれた王国があった。その国では王の統治の下、全ての国民が幸福に暮らしていた。だが、かつて彼の国では不公平が蔓延し、諍いが絶えず起こっていたのだ。この状況を打開すべく、全国民が出した答えは「平等」。しかし、行き過ぎた平等の結果、王国にもたらされたものとは……。現代アートの鬼才・藤本由紀夫と人気作家がコラボレーションした九篇の黒い寓話集。

上に引用したのは新潮文庫『祝福されない王国』裏表紙の解題。 ここでは「寓話」という言葉用いられているが、著者の嶽本野ばらは自身による文庫版あとがきにおいてこれを否定している。曰く、

いわば寓話 ―― 何かいろんな暗示や、一度読んだだけでは窺い知れぬ奥行きがあるのでしょうね ―― この作品は ―― といわれたけれども、そんなにたいしたものはない。奥行きがないとはいわないけれど、あってもせいぜい金貨一枚程のものだから、まぁ曖昧三センチ ―― というところだろう。寓話ともいいかねる。教訓も秘めたる主題も殆んどないからである。

とこんな感じだ。だが本当にこの作品は寓話では在り得ないか。確かに著者である嶽本野ばら本人がそう主張する以上寓話として書かれたものではないのだろう。しかし実際に読んでみて感じたのは金貨一枚とは思えぬような奥行きだった。この作品は昔話的な平易な文章の中に確かに読者に何かを感じさせ、考えさせる力を持っている。ここに著者の意図と読者が受ける印象にずれが生じる。


少し話が飛躍するが、つい最近まで私は作者の意図こそが作品解釈の絶対基準だと考えていた。しかし最近では読者の側の解釈に興味を惹かれることが多くなった。一般的にテクスト論と言われるものに近い立場だろうか。今回の場合だと、たとえ作者が意図していなかろうと読者によって寓話的だと解釈される限りそれは寓話なのである。そんなことをとりとめもなく考えながら思考はさらによくわからない方向へと進み、テクスト論はフッサール現象学における認識の問題に近いのではないかなどと考えだす。つまり作品は作品としてそこにあるのではなく、読者によって読まれる(=認識される)ことによって初めてそこに存在させられるものと言えるのではないだろうかなどと。

2013年5月2日木曜日

シェイクスピア『マクベス』(松岡和子訳、ちくま文庫)

シェイクスピアの『マクベス』を読んでの感想、というか思ったことを少し。

有名な作品ではあるが恥ずかしながら初読。シェイクスピアの作品ということでも『ハムレット』を昔読んだきりなので2作品目ということになる。何故これまで読もうとしなかったのだろうかと不思議に思いつつ読んだわけだが、昔『ハムレット』を読んだ時の感覚を思い出して納得した。要するに面白くないのである。

『ハムレット』『オセロー』『マクベス』『リア王』の4作品はシェイクスピアの中でも四大悲劇と呼ばれ内容まで含めて有名だ。当然私も大体のあらすじは知っている。あらすじを知っていたからといって全く面白くなくなってしまうかというとそうとも限らないのだが、ここで外国文学つまり翻訳文学であるということが問題となってくる。

シェイクスピアの面白さの多くはその言葉遊びにある。これは本文に付された訳注を見れば明らかである。しかし翻訳によってそれらは失われてしまう。これは訳の問題ではなく翻訳という行為そのものが抱える宿命だ。そしてシェイクスピア作品の場合はその影響が大きい。それは戯曲という形式からくる描写や構成の簡潔さ、そして内容も含めて有名すぎるということに拠るのだろうと思う。とにかくそうした事情から翻訳されたシェイクスピアを読むと、まるであらすじをなぞっているだけのような感覚に陥るのである。

そんな文句を言うのであれば英語で読めばいいじゃないかという声も聞こえてきそうだが、それもどこか的外れな意見のように感じる。確かに私たちは英語教育を受けてきている。辞書を片手に原文を読むことも出来るかもしれない。しかしそれはイギリス人が英語を読むのとは圧倒的に違うのである。言語感覚であったり文化的背景の理解だったりという点で私たちはイギリス人に敵わない。もっと言えば現代のイギリス人にとってのシェイクスピアと、シェイクスピアが生きた当時のイギリス人にとってのそれとの間にも天と地ほどの差がある。それは日本人にとっての源氏物語などを考えれば明白なことだ。

ではこのように文化の違いなどによって本来の面白さが失われてしまった文学作品に価値はないのだろうか。私はそんなことはないと考える。古い作品や文化の理解が失われた作品たちはそこに現代的、同文化的解釈を挟むことで時と文化を超え、再び僕たちのもとで復活を果たす。それは作品そのものであったり翻案小説という形をとったり様々だが、そのように時や文化の壁を超えられる作品というのが本当に力のある作品であり、過去から未来へと読み継がれていく作品なのだろうと思う。