2015年2月3日火曜日

「記憶の場」とジャンヌ・ダルク

 久しぶりにブログでも書いてみようと思い立ったはいいが肝心のネタがない。ということでHDDの中を漁っていたら、何年か前に大学の授業でピエール・ノラの『記憶の場―フランス国民意識の文化=社会史〈第3巻〉模索』を読んだときにジャンヌ・ダルクについて書かれた項を僕がまとめたものを見つけたので引っ張り出してみました。曰く、


【序】

  • アナトール・フランス「オルレアンの乙女の記憶を時代を追ってたどってみるのは、たいへん面白いにちがいない。だが、それには一冊の書を丸ごとあてねばなるまい」 
→ジャンヌ・ダルクに関する膨大な資料群(オルレアンのジャンヌ・ダルクセンターに蒐集された8500冊以上の本、数千のスライド、数百の新聞ファイル、長編映画のフィルム等)=死後もたえず人々の口にのぼっていたことは明らか

  • ジャンヌを扱った文学や芸術や歴史書は豊富に存在する。 
=教科書、通史、百科事典、映画、演劇、音楽、(物語・エセー・小説・伝記・詩などあらゆる種類の)文学

  • ジャンヌダルクの名は19世紀以降、ミネラルウォーターの名からカトリック青年団のサークル名や政治結社名まで、あらゆるところで用いられた。 
→過去から現在までの多様な表現による有名なジャンヌの行為の定型化されたイメージ(内面の声に耳を傾けるジャンヌ、オルレアンを解放するジャンヌ、ルーアンで死刑するジャンヌ)

  • ジャンヌの記憶はフランス中に満ちあふれている。 
butジャンヌの記憶は、時間的にも空間的にも断絶している。
→断絶のもとにはイデオロギー上の争点=ジャンヌの記憶は中立的なものではなく、分裂をもたらし、論争の的になり、政争の具にされた記憶


【変動する記憶】

<ⅰ時間による変化>
ジャンヌ・ダルクの死後の歴史には対照的な二つの時代がある。そしてその前にジャンヌの同時代人から得た人気についても言及する必要がある。

○15世紀=ジャンヌの同時代人たちの言説
ジャンヌの事跡は、フランス人や外国人の手による年代記の形で当時の著作物に書き記されたが、この時点ですでに矛盾する物語があった。親国王派のアルマニャック派に好意的なものもあれば反国王派のブルゴーニュ派に好意的なものがあるという具合である。そのほかこうした年代記の刺激を受けて記された1461年の『オルレアンの攻囲日誌』のような回想記や『オルレアン攻囲の聖史劇』のようなジャンヌを称揚する芸術作品も多く現れた。


○16世紀~18世紀 =あまり称えられることはなくむしろ中傷にさらされた時代
  • 16世紀 
反国王派のブルゴーニュ派の伝統がアルマニャック派に抗して生き続けた。ギヨーム・デュ=ベレーの『戦争の事実に関する教訓』ではジャンヌはフランス宮廷の単なる道具でしかなかったかのように描かれる。フランス語で書かれた最初の国民的な歴史とみなされる著作であるジラール・デュ=エランの『フランスの紛争における慈悲について』もジャンヌの使命と彼女の純潔の双方を疑ってかかった。

  • 17世紀 
古典古代をも半年、中世を野蛮とみなした17世紀の人びとにとってジャンヌは「ゴシック的すぎる」存在であった。そのため『オルレアンの乙女あるいは解放されたフランス』という叙事詩が作家たちの物笑いの種となり、ボシュエは『フランス史序説』の中でジャンヌが耳にした「声」に言及することなく、ジャンヌに対して無関心を貫いた。このようなジャンヌに対する懐疑的態度からは17世紀におけるジャンヌがもはや才人の関心を引く存在でなかったことが分かる。

  • 18世紀 
18世紀にはのちに冒涜的と評価されるヴォルテールの『オルレアンの乙女』が繰り返し読まれた。ヴォルテールはその詩の中でジャンヌの名声を失墜させ、『哲学辞典』ではジャンヌを霊感を受けたとあつかましくも信じ、偉大な役割を演じさせられた「哀れな愚女」と表現した。こうした評価は中世全般に向けられた侮蔑の所産でもあり、多くの人の共有するところであった。


○19世紀以降=広範な賞賛を勝ち得た時代
  • 19世紀 
19世紀が「ジャンヌ・ダルク」の世紀となるには中世を見直そうとするロマン主義運動・愛国心・ナポレオン没落後のカトリックの復活という三つの要素がからんでいた。これらの動きの中でミシュレの『ジャンヌ・ダルク』が生まれ、ジャンヌ・ダルク物の祖型となると共に、祖国を啓示するジャンヌは燦然と輝く地位を約束された。この「侵略を受けた者たちの聖女」というイメージはフランス国民を創出する神話として必要とされ、アンリ・マルタンはジャンヌを「民族の救世主」と名付けた。そして信仰篤いジャンヌという像を広める通俗的な著作も増えていった。また、こうしたジャンヌの記憶の再構築には史料に立脚する歴史研究の方法が確立され、『有罪判決裁判』『名誉回復裁判』という形でジャンヌの裁判資料が相次いで刊行されたことにも起因している。こうして19世紀末には高まりつつあるナショナリズムとともにジャンヌ熱が最高潮に達した。

  • 20世紀 
20世紀にはジャンヌのイメージについてそれまでもあった乖離が決定的なものになった。その理由は学問的な歴史が史料研究によってさらに鍛えられたこと、敵対しあう党派がいずれもジャンヌの神話を利用しようとして、歴史と神話の距離が開いたことにある。党派の間ではナショナリズムの諸潮流が、国民的和解のシンボルとしてジャンヌを占有する傾向にあり、20世紀後半には共和派の愛国心が弱まり、極右のネオ・ナショナリズムがジャンヌのシンボルを引き継いだ。


<ⅱ 場所による変化>
時間の経過が、ジャンヌの記憶に強弱や濃淡の変化を及ぼすことはしばしばあった。さらには記憶が翳りを見せるときもあった。しかしその記憶は、ある特定の場所では、そうした変化や翳りにほとんどつねに逆らった。
→オルレアン、ドンレミ、ルーアン、これら感謝の場所、崇拝の場所では、ジャンヌ・ダルクの記憶はつねにたえることなく守られた。フランス人のあいだでは内部争いがたえなかったが、熱情と民間伝承とが彼女のイメージを保った。

  • オルレアン 
ジャンヌによるオルレアン解放は住民たちに熱狂的に歓迎され、オルレアンでは毎年この勝利の日を祝う祭典が執り行われるようになった。これは16世紀には宗教戦争によって一時中断されるが、再開されますます充実した祭典となった。その後も1793年に革命家によって宗教的、君主主義的という理由で中断されるなどたびたび問題となるものの続けられてきて、1920年にジャンヌがオルレアンを解放した日を国民の祭日とする法が可決されるとオルレアンの祭典は主要な行事であることが保障された。また、オルレアンでは毎年の祭りに加え、ジャンヌの記念像が造られ、ジャンヌが滞在したオルレアン公爵家の出納長ジャック・ブーシェの家であった「乙女の家」の保存にも強い関心を抱いた。このようにオルレアンではジャンヌをまず市の解放者として、ついで市の保護者として、考え続けてきた。

  • ドンレミ 
ジャンヌの故郷の小教区ドンレミにある「乙女」の家は15世紀以降巡礼の地となった。ジャンヌの家族、すなわちジャンヌの兄弟の子孫はジャンヌの記憶を絶やさないように努め、村人たちも有名な同郷人の記憶を大事にし、若者は四旬節中の第四日曜日にはジャンヌが「声」を聞いた「妖精の木」の下に赴いた。16世紀末にはその近くにオルレアンの乙女に敬意を表したチャペルも建設された。18世紀にはジャンヌの家は「フランスにとって、とりわけヴォージュ県にとって、偉大で輝かしい記憶と結びつく歴史的な記念建造物」としてジェラルダン家からヴォージュ県に売却され「ジャンヌの家」の保存が滞りなく行われることとなった。共和派とカトリック王党派との抗争の時にドンレミはそのとばっちりを受けることになったが、その間も村への巡礼は絶えることがなく、新しい聖堂も建設された。

  • ルーアン 
ジャンヌの最後の地であるルーアンでは1456年のジャンヌの名誉回復後、金箔が張られた青銅の十字架が、ジャンヌが火刑に処された場所の近くに建てられた。16世紀の初めにはオルレアンの乙女の像が、広場にある噴水を飾った。この噴水が壊れた後1754年には、それに代わる記念物が造られ、そこにジャンヌの新しい記念像が添えられた。今日再建されたヴィユ=マルシェ広場にもジャンヌの記憶を想起させるものがいくつかある。サント=ジャンヌ=ダルク教会の周辺には「記憶」の回廊が建てられ、1431年の火刑の場所には高さ20メートルの名誉回復の十字架が立っている。ジャンヌダルク記念館も造られ、ルーアンは定期的にジャンヌを顕彰する舞台となった。


【争われた記憶】

ジャンヌの騎行と彼女の劇的な死のあと、数世紀にわたって論争が続いた。その論争を煽り、そこに利益を見出したのは党派心である。それらのジャンヌを占有しようとする思想潮流の中で引き合いに出されるジャンヌからは、実際のジャンヌが持っていた複雑性が剥ぎ取られ、それぞれの潮流がジャンヌに見出す意味が一つだけになっていった。
=歴史的人物のジャンヌは神話化され、彼女の一生は寓意となり、その軍旗と剣は対立する党派のシンボルとなった。
→こうしてジャンヌの記憶は、19世紀を通して3つの表象に大きく分かれた。それらは時には相次いで誕生し、時には同時に存在していた。その三大表象とは「カトリックの聖女」「愛国的民衆の化身」「排他的ナショナリズムの守護聖人」である。

<ⅰカトリックのモデル>=「カトリックの聖女」
カトリックにおけるジャンヌのイメージはカトリックと反教権派との争いの中で作られていった。1920年にジャンヌ列聖にはローマ教会の政治的行為が見られる。その頃教皇庁は第一次大戦戦勝国のフランスとの外交関係再開を課題としており、ジャンヌはそのために利用されたと考えられる。教会はジャンヌの「神の使命」にも「声」にも結論を下さず、ジャンヌを殉教者ともしなかった。彼女はその純潔と模範的な美徳によって聖人となったのであり、この普遍性によりジャンヌは国民の特定部分とだけ同一視されることを免れた。しかし愛国者、ナショナリストとなったフランスカトリックは、宗教聖人としてのジャンヌと国民的聖人としてのジャンヌを混同しがちであった。

<ⅱ 共和派のモデル>=「愛国的民衆の化身」
ジャンヌは王権の擁護者であり、歴史における超自然的なものを示す存在であったため、啓蒙の世紀に依拠する共和主義者をただちに満足させるものではなかった。そんな中でミシュレがジャンヌのイメージを一新した。その目的はジャンヌをヒロイズムと民衆の良識が入り混じった範型とすること、特に国民感情の創始者とすることであった。第三共和政の初期にはジャンヌに対する共和主義者の態度が二通りあり、一つは教会と王政からロレーヌの愛国者の記憶をもぎ取ろうというもので、もう一つはジャンヌを党派闘争を超越する和解的なシンボルとするものだった。このように19世紀を通して構築された共和派モデルは、多様な機能を帯びていた。

<ⅲ ナショナリストのモデル>=「排他的ナショナリズムの守護聖人」
右翼から来たキリスト教的愛国派と共和派の改憲論者という二つの潮流が合流して出来たナショナリズムにおけるジャンヌは、反ユダヤ主義と結び付き、「ユダヤ人の放浪性・都市性とジャンヌの農村性」「フランスに仕え、統一したジャンヌとフランスを裏切り、解体させようとするユダヤ人」といった対立構造を生み出した。そしてユダヤ人からフランスを守る国民的聖女としてジャンヌを崇拝した。ナショナリストはジャンヌの中にフランスそのものと、「人種」の美徳を見出したのである。

⇒これらの表象は初期には古いフランスと新しいフランスの争い、すなわち、カトリック君主制から生まれたフランスと革命的民主主義から生まれたフランス都の途切れることのない紛争が、「天国」からの使者という神話と民衆の娘という神話を対峙させ、「教会」の宗教と「祖国」の宗教を対峙させた。しかしここ100年の争点は、第三共和政が勝利したことで、すっかり変わってしまった。新右翼のイデオロギーには、カトリックの遺産と国民的な救世主信仰、反ユダヤ主義的な大衆迎合主義、反議会主義と反主知主義などが混じり合っていた。この新右翼はジャンヌの記憶の「引き継ぎ」を行い、ある程度は成功したが、それは完全なものではなかった。



【記憶の機能】

20世紀に入って、ジャンヌ・ダルクについて歴史研究が進展し、ロレーヌの乙女とその時代に関する新たな著作が増えたにもかかわらず、政治家と政党は、フランス人の団結と党派的な主張という相反する二重の目的で彼女を利用した。

  • 結集の機能 
1914年に成立した挙国一致の神聖同盟のもとではジャンヌを旗印にフランスは結束し、ドイツ軍兵士と対峙することになった。そして1918年の勝利によって遂に共和国とジャンヌ・ダルクの和解が成立し、ジャンヌの日が制定された。こうしてジャンヌは対外危機や20世紀の様々な危機に対してフランス人の結集や団結や連帯が求められる際のよりどころとなった。しかしこの結集の機能もいつまでもは続かず、1979年の普通選挙によるヨーロッパ議会の最初の投票日の直前に行われた超国家的な演説では再び、ジャンヌの記憶が党派的な政争の具とされた。

  • フランスについてのある理念 
ジャンヌの記憶は主として、ジャンヌの実際の歴史を歪め、戯画化した党派闘争によって守られてきた。しかしそれでも、伝説となったジャンヌの武勲はジャンヌをめぐる論争とジャンヌの争奪を超えてフランスに関する一つの理念を人心に定着させた。その理念は神話とも歴史的真理ともつかず、常に関連する三要素によってつくられてた。その三要素とは「フランスは常に分裂していた」「フランス史は奇跡に満ちている」「救世主」である。そしてジャンヌのイメージが争奪の的となってきたのは彼女がキリスト教と革命という二つの文化を具現していたからであり、この二つの文化こそ、独特のアイデンティティをフランスに与えるのに寄与してきたものである。これは詩人アラゴンが「フランス的特性」として「フランスにはキリスト教と唯物論という二つの偉大な伝統があることが知られている。それらの伝統が非和解であると、どうしてわれわれは思うのだろう。フランスが危機にさらされるときには、二つの伝統が和解するのがわからないのか」と述べるのと同じく、フランスは「ときには分散し、ときには収束する二重の系列であり、単一にして分割可能なロレーヌの乙女である」ということが出来る。


…とまあこんな感じたったらしい。ジャンヌ・ダルクは人生そのものも劇的なのだろうけど、死後の享受の在り方まで劇的だったことがわかりますね。個人的に「記憶の場」という考えは面白いと思った記憶があるのでもう一度読み直してみたいです。