昔、世界の端に海に囲まれた王国があった。その国では王の統治の下、全ての国民が幸福に暮らしていた。だが、かつて彼の国では不公平が蔓延し、諍いが絶えず起こっていたのだ。この状況を打開すべく、全国民が出した答えは「平等」。しかし、行き過ぎた平等の結果、王国にもたらされたものとは……。現代アートの鬼才・藤本由紀夫と人気作家がコラボレーションした九篇の黒い寓話集。
上に引用したのは新潮文庫『祝福されない王国』裏表紙の解題。 ここでは「寓話」という言葉用いられているが、著者の嶽本野ばらは自身による文庫版あとがきにおいてこれを否定している。曰く、
いわば寓話 ―― 何かいろんな暗示や、一度読んだだけでは窺い知れぬ奥行きがあるのでしょうね ―― この作品は ―― といわれたけれども、そんなにたいしたものはない。奥行きがないとはいわないけれど、あってもせいぜい金貨一枚程のものだから、まぁ曖昧三センチ ―― というところだろう。寓話ともいいかねる。教訓も秘めたる主題も殆んどないからである。
とこんな感じだ。だが本当にこの作品は寓話では在り得ないか。確かに著者である嶽本野ばら本人がそう主張する以上寓話として書かれたものではないのだろう。しかし実際に読んでみて感じたのは金貨一枚とは思えぬような奥行きだった。この作品は昔話的な平易な文章の中に確かに読者に何かを感じさせ、考えさせる力を持っている。ここに著者の意図と読者が受ける印象にずれが生じる。
少し話が飛躍するが、つい最近まで私は作者の意図こそが作品解釈の絶対基準だと考えていた。しかし最近では読者の側の解釈に興味を惹かれることが多くなった。一般的にテクスト論と言われるものに近い立場だろうか。今回の場合だと、たとえ作者が意図していなかろうと読者によって寓話的だと解釈される限りそれは寓話なのである。そんなことをとりとめもなく考えながら思考はさらによくわからない方向へと進み、テクスト論はフッサール現象学における認識の問題に近いのではないかなどと考えだす。つまり作品は作品としてそこにあるのではなく、読者によって読まれる(=認識される)ことによって初めてそこに存在させられるものと言えるのではないだろうかなどと。
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